「おカネと仕事とネコ」で人生を散歩するリアルなブログ

おカネと仕事の成功と、愛すべき猫や動物たちの話題について、お茶やコーヒーを飲みながら読んでもらえるブログです。

相場の雑観 ( 3 ):歴史を学ぶ vol.1 渋沢栄一よりも好き♪

2月からNHK大河ドラマ「青天を衝け」が始まりましたね。渋沢栄一を取り上げて、イケメン俳優の吉沢亮作が演じています。

また、2024年度からは新一万円札に渋沢栄一が印刷されます。

私の妻も、急に渋沢栄一を口にするようになりました。

単に吉沢亮作が好きみたいです(苦笑)。

f:id:chalanpolan:20210228143922p:plain

今回は通貨の話です。

 

私は渋沢栄一よりも山田方谷(ほうこく)が好きです。文化2年2月21日(1805年3月21日) - 明治10年(1877年)で備中松山藩岡山県)の藩士でした。渋沢栄一が生まれる35年前の話です。山田方谷備中松山藩財政をわずか八年で立て直し、逆に十万両ほどの蓄財を成功させました。

 

当時は、お金といえば、金銀銅の通貨の他にお米もお金と同様の価値がありました。江戸では金を中心に、大阪より西は銀が主に流通していました。それ以外に、各藩が藩札を発行していました。藩札と言っても藩の中だけしか流通しないので、他の地域と交易するにも、いずれ金や銀などと両替しないとなりません。その時に、慌てる基本的な構図です。藩札は紙幣というよりも約束手形のような位置付けだったわけです。

備中松山藩も大阪商人からモノを買っては藩札で払っていたので財政は火の車でした。

 

この藩政改革に山田方谷が抜擢されました。彼は、藩札を大衆の前で焼き払い、大阪商人に正直に藩の財政事情と返済計画を訴えます。これが信用されて、財政改革は進みます。山田方谷儒教の中の朱子学陽明学の良いところを統合する考え方を持っていました。

当時は朱子学が絶対で、これは朝鮮半島李氏朝鮮もそうでした。陽明学は資本主義的であり、どちらかといえば90年代から勢いを増した新自由主義的なところがあります。そのため、陽明学は主君に仕えさせる支配体制から厄介者扱いされていました。

 

山田方谷に影響を受けた幕末の著名人は少なくありません。越後長岡藩で幕末にガトリング銃で官軍に対抗し英雄となった河井継之助にとっても藩政改革の師でした。

この山田方谷の唱えた「義利合一と至誠惻怛」は後の世に大きく影響しました。

義理合一朱子学のように主君や祖父母を敬う倫理的な考え方と、陽明学のように合理的な理屈で進めることは、どちらも同じように大切にしなければならないという意味です。

至誠惻怛(しせいそくだつ)とは真心と慈愛の精神です。

 

この教えに感銘を受けて、方谷の右腕になったのが三島中洲でした。25歳ほど若く渋沢栄一より10歳ほど先輩の中洲は、その教えを守り明治になって二松学舎を創立しました。

渋沢栄一道徳経済合一説を唱えたのは、親交のあった三島中洲から山田方谷の義利合一を聞いて焼き直したに過ぎません

 

そんなわけで、「渋沢栄一ねえ?山田方谷の方が好きだな」となるわけです。

 

 

ここで、藩札焼き払いのことをお話ししました。通貨の基礎は信用だということを伝えたかったのですが、少々脱線してしまいました。

 

(続く)